久しぶりの日本

横浜に到着。
久しぶりの日本。
「きれいだ」「汚れていない」「均整がとれている」「清潔」といった印象。
やっぱり日本がいいな。
寄港地では船のマストに寄港地の国旗を掲げる。なかなかうまく旗めかなくて、いい写真が撮れなかったが、今日は風がいい感じに吹いてくれて旗を撮ることができた。
横浜では下船せず、ベイブリッジの下を通り神戸へ向かう。
伊豆半島に沈む船での最後の夕日は、とても美しかった。
横浜-1
横浜-2
最後の夕日

さよならディナー

船旅も最終盤となり、さよならディナー。
スタッフ総出での歌と挨拶があった。
いつもお世話になったハウスキーパーのホセさんと記念撮影。
100日に亘る長い航海も終わりに近いと、ひしひしと感じた。
さよならディナー

噴煙を上げる西ノ島

小笠原諸島沖を航行。
噴煙を上げる西ノ島が見えた。25km離れているので、霞んでいるけど噴煙ははっきりと見えた。また、噴火時のドーンという音も聞こえた。
西ノ島

日本語を教える

ピースボートには船上英会話教室(通称GET)があり、日本語をあまり知らないGETの先生にボランティアで日本語を個別に教える人の募集があった。
Yはアメリカオハイオ出身のクリスに教えることとなった。
ほとんど日本語の分からないクリスに、片言英語のYは、何をどうやって教えたらよいか毎回四苦八苦していた。その回数なんと26回(1回あたり1時間)。
クリスの英語の発音は聞き取れず、つづりを書いてもらってもそれが読み取れずでスタート。
日本語と英語の変換は、Wordの翻訳機能が役立っていたようだ。ネットは繋がらないので。
ときには、麻雀を通じて。
とても系統的に教えているとは思えなかったが、終わりのころには、おばちゃん相手に日本語で会話ができるようになっていた。
日本語を教える

硫黄島周航

硫黄島は東京都小笠原村、日本に戻ってきた!
硫黄島も太平洋戦争の激戦地。
東西4km、南北8kmの小さな島で、2万2千人の日本軍対7万人の米軍の戦い。それぞれの死傷者数は2万人と2万8千人。
何と多くの命が失われたのだろう。
現在は自衛隊の基地。民間人の立ち入りは禁止されている。
船で硫黄島を一周。
海岸には70年経った今も、戦争の残骸が朽ちていた。
硫黄島の周りの海は、クジラの餌場となっているらしく、あちこちで潮を吹き上げたり、尾を上げたりしていた。今回の航海ではクジラに出会えないなあと諦めていたが、やっとクジラに対面できた。写真の腕がもう少し良ければ。。。
硫黄島周航-1
硫黄島周航-2
硫黄島周航-3

自主企画「収穫祭」

クルーズも終わりに近づき、この3カ月の船内サークル(自主企画)音楽・踊りなどの発表会「収穫祭」は行われた。何と!34グループ、延々5時間にもわたるイベント。
見ている人の数よりも、舞台に出ている人の方が多い。参加型イベント。自分たちで楽しみ、盛り上げていこうという、この船ならでのイベントだろう。
Aは、この3か月間続けてきたオカリナ・フォークダンス・フラダンス・太極拳に参加。中間発表の時よりは少しは上達したかな?
Yはハーモニカに参加。
他に、絵画、写真、絵手紙、スケッチなどの展示も開催された。
収穫祭-1
収穫祭-2

日本へ向け北上中

残り、一週間。日本へ向かって一路、太平洋を北上中。
グアムの近くを通り、硫黄島、父島・母島、そして鳥島、八丈島。
その後、エンジンは動いている。
日本に着くまでは、無事動き続けてほしい。
船では今、「硫黄島からの手紙」という映画を上映している。このあたりの島々は太平洋戦争中、戦場になったところばかり。26日には船上で慰霊祭も行われた。
平和だからこそ、観光の旅ができる。
平和を大切にしていきたい。
北上中

劇団張扇「声・こえ・声」公演

ピースボート第86回乗客による劇団張扇の2か月半にわたる成果を発表する「声・こえ・声」公演が行われた。
第1部 講談
第2部 朗読
個人や群読を取り混ぜ、熱演。
最後に北原白秋の「お祭り」で盛り上がって終了。
多くのお客様が観て、聴いてくれていた。中には「よかったよ!私も参加したかったなあ」と言ってくれた人もいた。
劇団張扇公演

船が動いていない!!

夜明けまでには、まだ間のある時間に目覚ましで起こされ、半分朦朧とした状態で、電気をつけるが、つかない。
トイレの電気もつかない。
妙に静かだ。
常にしているエンジン音がしない!
廊下に出てみると、非常灯のみが点灯し、暗い。
周りの部屋の人たちも、ドアを開けて、「どうしたんだ!」と言い合っている。
水も出ない。
最悪の状態を考える。一番の問題はトイレだろうな。
エンジンの止まった船で漂流した人の話では、トイレが溢れて大変だったという。被災地と一緒だ。
到着が遅れたらどうしよう?電気がつかないということは、ネットも接続できないだろうな。どうやって連絡しよう?
ようやく明るくなってきたので、とりあえずデッキに出た。みんな不安げに話をしている。
厨房は、非常用電源があるようで、コーヒーは飲めるようになっていた。
コーヒーを飲みながら、時間をつぶしていると、船の煙突から煙が!
エンジンが動き始めたようだ。電気も回復。
水は茶色の水だが出るようになった。
しばらくして、「緊急メンテナンスのため、エンジンを止めていた。ご心配をおかけしました」と船内放送。「きっと、エンジントラブルだろう」
無事、日本まで帰り着けるか不安。
後10日間何とか動いてくれ!

ホニアラ(ソロモン諸島/ガナルカナル島)

最後の寄港地、ガナルカナル島ホニアラ。
太平洋戦争の日米激戦地、多くの戦死者を出したことで有名な島。
ピースボートは20年ぶりの寄港。戦後70年を記念しての寄港。
観光地ではない島。
船のデッキで、「親戚の家の庭の土を持ってきた。亡くなったであろう場所に撒いてきてくれと親戚に頼まれた」と話している方がいた。70年経っても、まだ戦後は終わっていない。
ガナルカナル島ホニアラは小さな港町といった雰囲気。
船の前では、歓迎の演奏。竹筒の楽器はペルー(アンデス)の楽器に似ている。
ツアーは、「戦跡めぐりと首都ホニアラ観光」。
マダカスカルと同じミニバス(今回は冷房あり)に分乗して出かける。
まず、日本の平和記念碑。花輪とお線香があらかじめ用意してあった。ピースボートのような客船でも日本から10日もかかる南海の島で、何故戦争。そこに送り込まれて無残に殺された人の無念さ。なだらかな山と海の景色が美しいだけに、悲しさがつのる。
平和記念碑には、
「愛情・信頼・勇気・知恵になぞらえた四基の柱
この地球上東西南北
あらゆる地点に等しい顔を向け遠心的な力を秘め
国家や人種や宗教の枠を超え
心をこめて愛と安らぎの復活をここに祈る」と、設計者の碑文があった。
次に、血染めの丘に行った。ここは、激戦の中、日本の兵士たちの血で丘が真っ赤になったというところ。慰霊碑にお線香を手向ける。普段は草がぼうぼうと大きくなっている所のようだが、日本から多くの人が慰霊に来るということで、急きょ草刈りをして、未舗装の道路はミニバスが通れるように道の両脇の木が刈ってあった。忘れ去られた場所なのだろうな。
ルンガ飛行場に回る。ガナルカナルの戦闘は、まず日本軍が来てルンガ飛行場の建設を始める。米軍がそれを奪おうとしての戦闘。そして日本軍敗退。ルンガ飛行場はヘンダーソン飛行場となり、現在はホニアラ国際空港。
米国の平和記念碑は、一番景色のよいところに建てられている。戦勝国の特権だ。
ガナルカナル島の人々はどんな気持ちだっただろう。
よそ者が勝手に来て、殺し合いをしていくなんて。やむを得ず米国側に手を貸した人は英雄となって像が立っている。それが戦争だよね。
戦争の遺物はあちこちにあった。予想していたよりは、片づけられてしまっている感があったが。
そして、ホニアラ観光。観光地でないホニアラはほとんど見るところがなかった。
昼食はお芋中心。タロ芋(里芋のおおきなもの)、さつま芋。主食は芋のようだ。
市場にも芋が一杯。
街を外れると、昔ながらの高床式の住居が多い。電線のないところを見ると電気は来ていないようだ。
よそ者の私たちに、子供たちが寄ってくる。子供たちの笑顔は素敵だ。
物質的に恵まれていないところの子供たちの方が、生き生きと感じられる。「豊かさとは何か」と、この航海で考えさせられた。
ガナルカナル-1
ガナルカナル-2
ガナルカナル-3
ガナルカナル-4
ガナルカナル-5
ガナルカナル-6
ガナルカナル-7